【縁側雑考】価値を与える者と与えられる者

縁側雑考

こんにちは、アキヒロです。

今日は「価値を与える者と与えられる者」ということで、少しお話してみたいと思います。

なんの話かと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、このページを開いた方は何かしら精神的な、心理的なことに興味がおありなのではないかと想像するところです。なかには、今まさに苦しい思いをされている方もいらっしゃるかも知れません。今日のこの話が、何か悩みを解消したり、いま抱えている気持ちをほぐすきっかけになると嬉しいです。

 

さて、まずはここでいう「価値」という言葉ですが、例えば、「自分は価値のある人間だろうか」といったニュアンスの存在価値という意味合いで、自己を肯定、もしくは否定する根拠として信じるもの、といったあたりでしょうか。

先の質問「自分は価値のある人間だろうか」について

自信満々に「価値がある」と言える人もいれば、「わからない、価値がないかも」と弱気な方もいるかも知れません。

では、なぜそう思うようになったのか。自己に対する価値認識の形成について、少し考えてみたいと思います。

人はどのような時に自分に価値があると思うのか。それは多くの人にとっては他者から認められたときではないでしょうか。

この世に生を受け、ほとんどの場合、家族が最初の社会であり、父母兄弟が他者とのつながりの最初となります。

子供の頃を思い出してもらってもいいですし、お子さんのいらっしゃる方はお子さんの様子を見てもらっても良いですが、自分のことを見てほしい、かまってほしい、褒めてほしいという言動をよく見かけると思います。そこで、お父さんやお母さんがちゃんと子供を見て、話しかけていく、褒めてあげることで、自分はかまってもらえる存在なのだと、自分が頑張ってやったことがすごいことだと、満足と安心を得ていきます。これは父母によって価値が与えられたということになります。

少し大きくなると学校に行くようになります。学校に行けば、勉強ができるできない、スポーツができるできない等により、先生から生徒に価値が与えられていきます。また、クラスの同級生のなかでも、例えば、イジメがあったりすると、キモい、ダサい、ウザいといった言葉が投げかけられるかも知れませんが、これらも価値を与える行為に他なりません(与える価値はマイナスですが)。

同様に、会社に入れば、上司や同僚により良くも悪くも価値が与えられていきます。

このように、我々は生まれてからずっと、他者に与えられる価値の影響を受け続けています。

最初の質問で「自分は価値がある人間だろうか」という問いに対して、自信をもって価値があると思えるかどうかは、これまで他者から与えられたプラスの価値の蓄積によります。

ここでお伝えしたいことは、自分が認識している自分の存在価値は他者によって作られているということです。

さて、自己に対する価値認識の成り立ちについて見てきたわけですが、何もあなたは与えられるばかりではなく、当然、あなたも人に価値を与えることもあり、人は相互に価値を与え合っています。

ただ、周りを見渡してみると、価値をより与えることのできる強者と、より価値に影響される弱者がいるように思います。

わかりやすい例でいえば、会社の上司と部下。上司は会社から一定の評価を受けて、そのポストについているわけで、ある意味その場において肯定された存在。その上司から、お前は仕事ができない、と言われれば、その部下は、周囲から肯定されている立場のある存在から、劣悪な価値を与えられ、マイナスの影響を受ける。また、勝手な想像ですが、イケてる感じの女子高生が少々小太りの脂ギッシュなおじさんを、キモいと言ったとすると、おじさんは自信をなくすかも知れません。これは、特に女子高生とする必要はないですが、若い女性は子を産むため、選ぶ側であり、生物学的な意味で立場に強弱が生じているためです。

何が言いたいかというと、より存在の肯定された者が強者となって、周囲のより立場の弱い人々に価値を与えるという構図があるということです。

この構図が、今日のタイトルにある「価値を与える者と与えられる者」についての1つの結論ともいえなくはないですが、これは相対的な話であり、「価値を与える者」と「与えられる者」を絶対的に隔てるものではありません。

さて、お侍さんのち髷(まげ)。時代劇で出てくるとそんなものかと思って見ていますが、学校の隣の席の子や会社の同僚が、明日、ちょんまげを結ってきたらどうでしょう。ちょっとびっくりしますよね。

江戸時代、ちょんまげはイケてるヘアスタイルだったはずです(たぶん)。でも、今ちょんまげで学校に行ったら、爆発的にもてはやされる可能性もあるかも知れませんが、おそらくはからかわれたり、バカにされたりするのではないかと思います。

また、次はどうでしょう。

ちょっとムチッとしてますね。日本人は、太っていると薄着になったり、水着を着たりすることに抵抗を感じる人が多いかも知れませんが、海外ではそこまで気にされないように思います(アフリカや中東などでは、ふくよかさが富の象徴として逆に魅力だったりします)。

人間の価値観というものは、時代やところ文化が変われば容易に変わり得るものです。

世の中にはより影響力をもって他人に価値を与えていく強者がいるように見えます。しかし、その人達が与えてくる一見確からしい価値も絶対的なものではありません。人間の価値観は不完全であり、偏りのあるものです。そうした曖昧でいい加減な他者の価値観に、我々の存在価値は依存していることになりますが、本来、そんな必要はありません。

こちらの記事でも書いていますが、人は本来、そもそもそこに存在している時点で絶対的な価値があるものです。それは誰に毀損されるものでもありません。

その確信、自らの自己存在の絶対的な肯定が、この他者から与えられた価値の呪縛からの解放となり、そこで初めて自分が自分という人間の主人たり得るのです。そうでなければ、自分は自分でありながら、他者から与えられた価値によって考えや判断が引きずられてしまうため、言わば、他者の価値観に隷属している状態とも言えますが、そこから脱却することで、“価値を与えられる者”から“価値を与えられる必要のない者”になります。

そして、自らに絶対的な価値を確信できたなら、他人に対してもその人の存在を純粋に肯定できるようになるはずです。そうした見地から、まだ与えられた価値の範疇にある人々の存在(外見がどうとか、何ができるできないではなく、存在そのもの)を肯定し、その人が自らの存在価値に確信がもてるよう手助けしていく、それが真の意味で“価値を与える者”となっていくことではないかと思います。

それでは、今日はこのあたりで。

良い一日をお過ごしください。

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